… 風景画の部屋 …  


 「水彩による風景画」を主なテーマにしたブログ日記です。
 これまでの絵は「絵画ギャラリー」に展示しています。初めての方はまずはこちらへどうぞ。

 横浜周辺での「風景画教室」です。詳細はこちらです。
 講師・平澤への連絡は「ka.hirasawa*gmail.com(*は@に代えて)」あるいは「電話 080-5860-3281」へどうぞ。

◆木曜教室は一杯です。木曜でなければダメと言う方は平澤まで連絡してみて下さい。
「次回は08月17日(木)子安運河」です。(7月からの詳細)

◆金曜教室(新規にスタート。まだ余裕があります。)
「次回は08月18日(金)戸塚区民文化センター(皆で同じ風景を描く)」です。(7月からの詳細)

◆遊彩会はまだ余裕があるようです。人形町に来られる方であれば区内の方でなくてもOKとのこと。
 ご希望の方は会長さんにお話しを伺ってください。

絵について  

 あまりこういうことを書くつもりはなかったのですが、教室を始めてしまいましたので、一応私のスタンスだけはハッキリしておいた方が良いかと思い、今の気持ちを正直に書かせていただきます。

 「絵」というのは紙(パネル)上に描かれた2次元の芸術だということができるでしょう。
 そこに描かれるものは、過去にはその目的やら表現上の制約があったわけですが、現代はその表現は全く自由だと言って良いでしょう。
 それを前提にすれば、誰が何をどのように描いても良いわけですが、それでも様々な主張があり、いくつもの団体ができている。何だかとても不思議な世界です。

 画材についても様々なものがあります。かっては油彩だけだったのかもしれませんが、今では水彩(透明・不透明)、アクリル、さらには水で描ける油彩(おかしな言い方ですが…)、パステル等々。そうした中で、何故か油彩画上位に位置づけられたりするような風潮があったり、公募展などでは、水彩画と言いながらアクリルのような油彩の亜流のような画材が認められていたり、あるいは透明水彩だけに限定されていたり…。これまた不思議な世界です。

 私は、水彩しか知りませんので水彩それも透明水彩(以下、「水彩」と書くのは「透明水彩」のことと考えて下さい。)で描いています。それはたまたまそれで描き始め、その色調が好きであり、表現の自由度の広さも気に入っているので、これまで透明水彩で描いてきました。途中、油彩に適した描き方だから油彩をやってみたら?と薦めてくれる方もいました。確かに油彩より水彩の方が表現上の制約がありそうですが、なかなかどうして水彩の表現の可能性は大したものだと思っているのです。それに、新しいことに挑戦する人生もそう残されていないような気もしますし、水彩への人々の関心も深まっていることを考えれば水彩はなかなか良いかも…と、今は割り切れるようになりました。
 つまり、たまたま透明水彩という画材を選び、それが気に入ったので、それで自分の描きたいものを描いている…それが私の絵なのです。

 そんなこともあって、いわゆる「透明水彩らしい」表現にこだわるものでもありません。そしてまた、他の画材と混用(ミクスト・メディア)も別に拒否するものでもありません。基本は、わざわざ自分の描く表現の幅をそんなことで自ら狭めることもないだろう…と思うのです。

 絵も何年か続けていると、どうしても自分としての考え方ができてくるものです。
 自分はどのような表現が向いているのか?どのような表現をしたいのか?と考えながら、今辿り着いているのは、(敢えて言えば…ですが)いわゆる筆のタッチを活かした描き方になると思っています。こうした絵は、見る方によればオーソドックスな…とか、正統的…と言って下さる方もいますが、つまりそれだけ当たり前な描き方でもあり、それだけ古い描法だとも言えるのかもしれませんが、それでも私が気に入っているのは、今の描き方なら、小さな絵から大きな絵まで、戸外でも室内でも、基本的には同じように描き方で描くことができるという点なのです。

 絵は、自分の気持ちで描くものであり、それを評価するのは絵を見る人で良いのです。

 絵は「良い」「悪い」ではなく、「好き」「嫌い」しかない…というような言い方もあります。
 しかし一方、それでも絵を描くものとして他者の絵を「評価・批評する」ということはあるように思います。教室を開いた以上、私もそうしたことがあるかもしれません。
 そうした場合でも、私が言いたいのは<自らの可能性を限定してしまうことはない。>ということ、その点についてだけなのです。

 こんな書き方では抽象的すぎて、多分理解していただけないでしょう。
 しかし、これだけは先に言っておきたいと思ったので、敢えて記してみました。

PS
 これからも時々こうした理屈っぽいことを書くかもしれません。
 皆さんは笑ってスルーして下さい(笑)。

category: ┗画論

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自分らしい絵とは…  

 私が絵を始めたきっかけは仕事が暇になって来た頃のこと。何かをしなければ…と考えていて、本屋でたまたまた「水彩画・プロの裏技(奥津国道著)」を見つけたことからだった。
 だから、奥津氏のお薦めの画具で、鉛筆画に着彩という彼の描き方を真似ることからのスタートだった。

 何十冊かの絵の本も買いこんで参考にしてみたりもしたが、そのうち、「自分らしい絵」ということを考えるようになった。
 そんな模索の中で、自分が気持ちよく描け、納得の行く絵というものがどういうものか、考えていた。滲み・ぼかしの手法での描き方、ペン画・割り箸ペン画に着彩等々の描き方も試してみたりもしてみた。
 アクリルやパステルも使ってみたりしたが、どうもしっくり来なかった。水彩以上に優れた画材だと思えなかったのかもしれない。だからといって油絵は、経験のない私にはどうも荷が重く、なかなか挑戦する気持ちにはなれなかった。まだ水彩を究めていないような気分もあった(画材というものはそういうものではないかもしれないが…)。
 しかし「水彩」しか知らない私は、いわゆる<水彩画らしい絵>というものを追い求める気持ちにもなれないまま、ただ自分の納得できる絵を求めていた。

 ある程度描けるようになってきたかも…と思えるようになった頃、そのまま続けていてもすぐに行き詰まるだろうということも感じるようになり、友人の紹介で三橋俊雄先生の教室に参加させてもらうことになった。
 そして、それまで私は「対象をいかに表現できるか?」を意識していたが、雰囲気・空気感、そして光を描くことの大切さを知り、色彩の奥深さや絵としての構成の仕方等々も重要だということを知るようになってきた。

 しかし、光を描くのは何とかなりそうでも、雰囲気や空気感とはどう描いたらいいのか、そしてそれが私の求める絵なのか…は永遠の課題でもありそうだ。

 公募展や他の人の絵を見たりするようになると、絵とは何か?と考えても仕方ないと思うようにもなった。今や絵は何でもあり得る状態だし、皆それぞれ自分の納得の行く方向を求めているんだと思うようになると、結局は、「絵に必要なのは、<自分らしい絵>に尽きる。」そう考えるようになった。つまり、自分が楽しく描けて納得の行く絵になっていれば良いんだと…。他の人の絵と比べる必要もないと…。
 例えばモチーフ一つとっても、他の人の感じ方とは違う物である。どんなに素晴らしい絵だと思っても、まったく自分で描きたいと思わないこともあるんだから仕方ない。

 ただ、他の人の絵から考えさせられることも多いし、現実の風景を体験する中で触発されるものも多い。そういったものはこれからも大切にしていかないと…とも思う。

 <自分らしい絵>とは何か?
 なかなか難しい課題であるが、今思うことは、描きたいモチーフを見つけた時、なぜそう思ったのか?それをどう表現できるんだろうか?と考えることが重要なように思う。その時、雰囲気や空気感、光などを手がかりにして描いていくことになるんだろう。
 そして、最終的には自分なりの<ポエジー>を創造していくこと…になるんだろうか?

 しかしまずは<自分が最も気持ち良く描ける絵であること。>を前提に、とにかく<自分を信じて描く>しかないんだろうと思っている。



 そんなことを考えながら絵を描いてきているわけですが、そんな意識と技術の結果が今のような絵になっているんだろうと思っています。だから、そんな意識に変化があれば、また私の絵の方向も変わっていくんだろうと…。

 そんな変化も、先が見えないだけに自分でも楽しみに描いていこうと思っています。

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 なかなか絵の再スタートが切れないので、今日は今まで漠然と考えていたことの一端をちょっと整理してみました。

category: ┗画論

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水彩画の表現  

 (透明)水彩で絵を描いてきて丸6年が過ぎた。それまでに様々な機会で考えてきた水彩画の表現などについて、ちょっと書き留めてみることにしよう。
#但しここでは、私の描いている透明水彩に限定しているつもり。不透明水彩やアクリルなどは考えていない。

●デッサンは着彩前にある程度は明確に
 油彩画と比較すればわかりやすい。
 よく有名絵画では、X線撮影をした結果、全く違った絵が隠れていたなどという話しがある。また、抽象絵画などでもキャンバス上でいろいろ絵が変化していった結果、最後の作品に辿り着いた…などという話しを聞く。水彩画ではとてもこういうわけにはいかない。
 それは、全く異なった色彩で上描きができないということによる。また、白抜き部分、明るい部分はやり直しが利かない。先の絵(清澄庭園の絵)を見ていただけるとわかるが、明るい部分(例えば左の枯れ葉)を残すのに回りを濃い色彩で塗りつぶしていかないとそれが表現できない(このあたりが引き算の絵と言われる由縁でもあると思うけど…)。
 つまり、デッサンはある程度着彩前に明確にしておくことが求められると思う。それにあまり拘ることもないかもしれないが…。

●塗り重ねを生かす
 しかし、水彩でも少しずつ修正しながら塗り重ねていくことはできる。大抵の場合、そうした方法で最初失敗かも…と思った絵を救うことができる。水彩画は淡彩スケッチのような場合を除き、色の塗り重ねで絵を作っていくことが普通だからである。私の場合でも大した絵ではなくても今まで廃棄した絵は多くても2~3枚に留まると思う。

 それを発展的に考えれば、次のような方法もあり得るのではないかと考えている。
 最近、強く思っているのが<鉛筆をもっと有効に使えないか>ということである。
 私の場合、下絵の線は最近アタリ程度になっているが、時折、鉛筆のタッチそのものを絵に生かしたいと思うことが多くなっている。最初はごまかしのような気がしてちょっと迷っていたが、今は水彩画らしい表現としてこうした使い方があっても良いと思うようになった。つまり鉛筆そのものを絵に生かして行けば良いということである。
 実は、このことは鉛筆に限らないと思う。パステルを重ねることもあり得るだろうし、不透明水彩などを重ねることがあっても良いのではないかと思ったりしている。
 要は、絵の中に効果的にであり、違和感なくちゃんと収まっていれば良いということではないだろうか?
#そう言えば、ドガはパステルを効果的に使っている。

●ダメだったら描き直す。次の絵に生かす
 水彩は描く時間が短くて済む。油彩のように最初に描いた絵を塗りつぶして別の絵を描き直すなんてことがないからそれは当たり前のことである。
 ピカソの「ゲルニカ」だって主要素を配置しなおした絵を何枚か描いた上で作品を完成させている。同郷の菱田春草の「落ち葉」だって何枚かの絵がある。
 失敗だと思えば、描き直せばいい。次の絵に生かせば良い。水彩画は油彩のようにキャンバス上でデッサンすることができない代わりに短時間で描けるんだから、それを生かせば良いっていうことだろう。

●水彩らしい表現とは?
 私自身は、ちょっとだけアクリルやパステルを使ったことはあるけど、基本的には水彩でしか描いたことがないからか、<水彩画らしい表現>にあまり拘ってはいないんだけど…。

 「油彩はマチエール」と言われる。水彩であってもそれを求めて下地にジェッソを使ってみたり、サランラップをしわくちゃにして絵の上に置いてみたりしている人もいる。あるいは塩などで水彩特有のマチエール的表現をしている人もいる。それもあって良いだろうと思う。私だってそういう表現をしてみたいと思うこともあるかもしれないし…。
 にじみ・ぼかしなど水を多く使った、筆跡を残さない、重ね塗りをしないような表現方法を水彩らしい表現としてそれに拘っている人もいるようだ。スパッタリングやスクラッチなどの技法もある。それも良いだろう。ただ、この表現方法は大判ではなかなか困難なので、小判に留まらざるを得ないのは残念だ。
 私自身は、もう少し自由に考えたいと思っている。となると色彩の塗り重ねが主体で、筆跡が残っても構わない表現方法ということなんだろうか?そういう描き方が油彩的だとも言われることもあるけどそれでも良い。自分の気分の赴くまま気楽に描いていたいというところ(笑)…かな?
 絵にとって大切なのは<自分らしさ、自分だけのもの>ということなんだから…。要は画材の問題じゃないんだから…。
#それでも、公募展などでは、いつも描いているF8くらいまでのサイズと異なって、全く違う表現方法にならざるを得ないところがある。そのあたりはちょっと悩ましい。

 最近、「自分の絵…とは何か?」そんなことを考える。でもこれも描きながらでないと先へ進まない。

category: ┗画論

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自分の絵とは?  

 絵を描き始めて6年。最近漠然と…であるが、絵画というものを考えている。

 具象、抽象、心象、前衛、さらにはアール・ブリュット(生(き)の芸術、最近はアウトサイダー・アートとも呼ぶらしい。この間TVを見ていて知った。)…等々、あるいは、絵、イラスト、デザイン、グラフィック…様々、絵の具で分ければ日本画、油彩、アクリル、水彩、パステル…等々。描く対象を見れば風景、人物、静物…等々。さらには現代絵画~古典絵画なんて区分も…。水彩画の中だけでもスケッチ、写生、作品…グループ分けしていけば限りなくあるように思える。
 そんな中で、私の絵は透明水彩、具象、風景…、どう整理したところでやけに偏った世界。いろいろ試している人もいるけど、私の場合にはどう考えても、最も描きたいのは風景だと思ってしまうからだし、透明水彩に限定しているのは、一応それが好きで他のものにまで手を出す余裕がないから…。
 あえて説明すればそんなことなんだろう。

 このところ私が毎年応募している水彩連盟ではもともと抽象が多いし、最近はやけにアクリルが多くなっているようにも思う。私はアクリルも水彩?とは思っているが、アクリル画を描いている人からすれば、透明水彩だけが水彩じゃあるまい…と思っているに違いない。今後ますますアクリル画が多くなることだろう。
 何となく不自由さを感じるようになってきている。

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 私には新しい絵画の世界を切り開こうなどという野心も、資質もないし、残されている時間もないから、好きに描きたい絵を描いていくだけだけど思っている。それでも少しずつ自分の絵が変わっていくのは好きらしいし、自分のスタイルのようなものを創り上げていくのには関心もある。その意味でも透明水彩は結果が早くて良いかもしれない。
 透明水彩の質感や扱いやすさは好きだから、多分、これからも透明水彩で描いていくことになるんだろうと思う。

 今では絵画にはあらゆる表現が許されるようになったが、見る人によっては絵画にしかできない表現を期待するということはあるのだろう。
 尾道の絵についてもそうだが、何枚かは映像的表現過ぎると指摘された。どういう絵がそう見られやすいのかは大体想像できる。恐らく光と影の扱い、対象の絞り込み方などが大きく関係しているんだろうと思う。私はあまり意識したことはないが、絵を描く人たちの間では、映像的表現と絵画的表現の違いに何か境界が意識されているのかもしれない…とも思う。
 私自身、スーパーリアリズムの方向に進みたいと思ってはいないが、写真で扱いやすい風景のモチーフ・表現は絵でも表現したいと思うことがある。その際は特に…かもしれないが、説明的にならないよう特に意識していく必要があるということなんだろう。

 私の絵は絵で自己を表現するというより、風景から感じとったものを表現したいという意識の方が強いようだ。だからどうしても具象的な表現になりやすいんだろう。
 ただ、一般的には、画家は具象的な表現から徐々に心象的・抽象的・象徴的な表現に移行していく傾向があるようだ。私の場合には、それがどこまでできるだろうか?そんな表現がいつになったできるんだろうか?したくなるんだろう。それで何か突き抜けたものを感じさせる表現、いつかそんなところにたどり着けるだろうか?

 具象でも半具象でも良い、説明的ではなく、映像的でもない、自分だけの独自の表現(こういうと軽すぎる気もするけど、「スタイル」と言ったら良いのかもしれない)を持っている。そんな私だけの画風というものができたら良いかなぁ。

 最近、とりとめもなくそんなことを考えてみたりする。



 明日から15日まで、季の会の仲間何人かは、先生と一緒に南フランスお絵描き旅行です。
 充実した成果を楽しみにしていましょう。

category: ┗画論

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没線画法  

 ちょっとおこがましい気がして、しばらく「画論」のカテゴリーにはあまり記事を描かないでいたのですが、最近自分なりに整理したいことができたのでここに書いてみます。

 私の郷土、飯田出身の「菱田春草」という画家がいます。「横山大観」と親友であり、朦朧体と揶揄されたのですが日本画の世界で没線画法を工夫したということは知られていますが、横山大観の記事の中にこんな言葉を見つけました。
「没線画法は、岡倉天心に「空気を描く工夫はないか」と問われ、菱田春草らとともに考え出したもの」
 それで、このことについてちょっと書く気になったのです。

 以前に書いたことがあるように、私自身は「奥津国道」氏の本を見てから絵をやってみる気になったのですが、奥津氏はまさに線画に着彩の絵。私もしばらくこの方法を続けていたのですが、次第にイライラする気分がつのってきました。もっと気分の赴くままに筆を自由に走らせたい欲求が強くなってきたのです。
#そうした意味では、主として水彩画特有のにじみ、ぼかしを生かした画法というより、筆のタッチを生かすような描き方が好みだったとも言えそうですが…。

 そうした頃、三橋俊雄先生の教室に参加させていただいて、雰囲気を描くということの大切さを感じるようになってきたのです。その後もいろいろ自分なりに試行錯誤しているうちに、図らずも自然に没線画法に近づいてきたようです。
 ただ、私の場合にはあくまでも水彩画。下絵は鉛筆で…ということになります。
 最近は、下絵がだんだん「当たり」程度の簡単なものになり、筆で絵を固めていくようになっていたのですが、最近春先の木々の細かな枝が見える風景を描いたり、絵の具を忘れて鉛筆画に着彩したりしているうちに、再び鉛筆の線も絵に生かして良いのではないかと感じるようになってきました。

 まあ、どの方法で…などと固苦しく考える必要はないでしょう。
 その時々に応じて、あるいは描こうとする風景や描く部分によって下絵の描き方も変わって来て良いかな…というのが、最近の考え方になりました。

category: ┗画論

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自分の絵について  

 6月25日は、久しぶりの風景画教室の講評。
 今回、自分の絵について指摘されたことは概ね以下のような点か?
・具象的表現を追求していくとスーパーリアリズムの狭い世界に入り込んでいくことになってしまうこともあるので意識しておく必要がある。
 もちろん、それはいつも考えていることであるが、写真から描く場合には、描き始める前に心しておかないとつい写真に引きずられがちであることは確か…かな?気をつけなければ…と思う。
・先日の「烟る都心ビル群(皇居堀端から大手町方向を見る):SM」のような表現も持っているわけだから、そちらの方も伸ばしていったらどうか…。
 余程回りがそう言う状況ならそう描きたいと思うこともあるが、どうも周囲がよく見えすぎる…(^^ゞ。

 たまたま、本日、「水脈」という水彩連盟の雑誌が届いた。4月の水彩連盟展の講評がされている。部屋毎に担当の先生が異なっている。私の絵が展示されたのは第1室。
 私の絵は、私を含めた三者をまとめて、「写真的なのが気になります。」とバッサリ(^^ゞ。

 これらの講評を私なりに解釈すれば、「写実から脱し次の方向を考えろ」ということなのか…。換言すれば、「もっと独自性のある画風を見つけ出せ」ということなのか…。

PS
 明日から2・3日、田舎の実家に帰省しますのでブログの更新はその後になります。

category: ┗画論

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「写真」と「絵」について  

 このところ、写真ブログを見る時間が増えてきました。
 そしてそれとともに、私の写真の撮り方もオートからマニュアルに変わって来ました。今まで、私にとっての写真は絵を描くための補助手段であり、画面の切り取りだけが重要だったのでオートで良かったのですが、徐々に写真表現の奥深さを感じるようになり、自分でもその違いを表現したくなってきたのです。
 といっても、私自身が写真に深入りしていこうということでは(まだ?)ありません。あくまでも絵を描く上で、写真表現から学ぶことが多いと感じるからなのです。

 以前、このページ「写真との関係」http://3291ahiru.blog1.fc2.com/blog-date-20051213.htmlで、写真と絵の違いについての感想を描いていますが、画面の構成の仕方についてはあまり異なるところはないとしても、その他、特に参考になることとして感じているのは次のような点です。

・タイミングを捉える熱意
 熱意というより、執念と言うべきかもしれません。
 写真に比べれば、絵は何と安易でしょう。しかし、風景を描こうとする人間はもっともっと時間や季節を大切にすべきなんでしょうね。

・ハイキーとローキー
 写真の画面の明るさ、暗さだけではないのですが、それによって「光り」がいかに違うことか。
 それによって、空気感までも違ってくるのは確かです。

・ボケ
 前ボケ、後ろボケ、そしてどこまでどのようにボカすか…の違いによって、対象の印象が明らかに違ってくるのを感じます。
 そして、土門券などを見ると、対象に迫るという意味では写真の方が上手(うわて)かもしれないと思ったりします。

・ホワイトバランス
 これを換えることで写真の色味が違ってきますが、それによって、その風景に感じる心象の違いが表現されるような気がします。
 この風景のベースカラーはどんな色なんだろう?なんて思ったりするのです。

・シャッタースピード
 高島野十郎という画家は水滴を見て流れを描いたということですが、滝を水滴として捉えるか、白糸のように捉えるかは、やはり絵の描き方にも関わってくることでしょうね。

 と書いてきましたが、写真についてそう詳しいわけではありません。
#どなたかちゃんと教えて下さい(^^ゞ。

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私の絵の見方・考え方  

私の絵の見方・考え方

 絵を描き始めて何年か経っているのですが、最初の頃とは絵に対する考え方が少し変わってきていることに気がつきます。そんなところをいつか整理してみたいものだと思っていたのですが、ようやくその気になりましたので、現段階での私なりの絵の見方(あるいは考え方)を書いて見ました。絵のことをわかっている人からみれば笑っちゃう話しでしょうが、まあ「理系人間の考えそうなことだ…」と笑って見過ごして下さい。
 もちろん、これも今後いろいろ変化していくものだと思うのですが…。
#せっかく絵を描いているので手描きにしてみましたが、汚い図になってしまいましたm<(_ _)>m。


 まず、一般的に言われている「具象」とか「抽象」とか言う概念があります。 これをX軸(赤軸)にとってみました。
 私の絵は相変わらず具象ですが、徐々に抽象まではいかないにしても少しずつ崩れて来ているようです。

 次に、「心象」風景などと言う言い方があります。それなら対極は何だろうと思った時、対象を客観的に描くことによってより対象に迫るという考え方もあるだろうと思い、これを「物象」と呼んでみました。もっと適切な言い方があるかもしれませんし、既に別の言い方をしているのかもしれません。これをY軸(青軸)にしてみました。
 私の場合、写真のように描くというところから出発していたような気もしますが、心の感じたものを少しずつですが描こうとするような状況になっているような気がします。

 さらに別の見方はないかと考えてみたものが、表現方法レベルの問題でした。つまり線を重視するのか色彩を重視するのか、という問題です。これを加えるとZ軸(黄軸)になります。
 私が絵を描き始めたきっかけは奥津国道氏の本を見たことでしたから、明らかに線を重視する絵から出発し、今は、線から徐々に色彩重視に移行しようと試行しているところなのですが、これが私にはなかなか難しいものなのです。

 こうした3次元の空間の中で、人それぞれが何らかの「狙い」を持ち、「思いを込めて」描いているのが「絵」だというような気がしているのです。
 私にはまだこの「狙い」を明確に表現するというのは課題のようですね。

 さらに、最近改めて思うことは、水彩の場合にはもう一つ別の軸があるのかもしれないということなのです。
 油彩画や日本画等と比べると、おそらく水彩画人口は初心者レベルから本格的な作品を描こうとする人まで幅が広く、圧倒的に数が多いと思います。そのため、人々が水彩画に抱くイメージは、簡単な「スケッチ」のレベルから「作品(特に大判)」に至る様々な見方があります。つまり、描く人も見る人も、多くの人が「水彩画」だから云々という見方をすることが多いような気がするのです。
 そういう軸をどう考えるのか?は結構重要な気がしてきたのです。

 この点に関しては、私自身も、水彩画をどう位置づけて描いていったら良いのか、まだまだふらついているようです。

 絵を描く人は、そうした状況の中で、それぞれの最も表現したい表現手法で、それぞれの「狙い」を表現したいと考えているのだと思うのですが、私もその中でこれからどうしていこうか?と、いつも頭をよぎるのです。
#こうした思案は、結構楽しいものなんですが…(^_^)。

 以上、私の勝手な思いつきの整理でした(^^ゞ。

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写真との関係  

 ネット上で知り合った友人が、絵を描く際の「写真との関係」について書いていました。それで、改めて「私にとって写真とは何なのか?」考えてみました。
#あくまでも、ここで書くのは「風景画について」と限定しておきます。

 現地で描くことに拘って絵を描いている人は沢山いますし、現地で描く絵は3次元を2次元に表現する行為になるので、相応の難しさがあり、現地で描かないと絵を描く際の何かが不足したり、絵の本質が失われているかのように言う人がいます。

 私がここに掲載している絵の殆どは写真をもとにしています。
 そして思うことは、私自身、(何枚も現地で描いていないのにですが)そういう難しさがあるとは考えられませんし、現地で描かないから何か絵の本質が失われるとは考えられないのです。

 だからといって、写真を元にして描く絵で十分だと思っているわけではありません。写真と現地はあきらかな違いがあることは確かなのです。

・まず精神的には、絵を描く環境{空気}が違います。
 恐らくこれは、絵を描く人の心のあり方に決定的な違いをもたらしていると思うのです。
 しかし一方、風景はいつも同じではありませんから、必然的にある一定の時間を切り取ることになるわけであり、その空気を体感じているのであれば、その写真をもとにして描いた絵でも相当程度、現地と同じ精神状態で描くことは可能だと思うのです。
#他人の撮影した写真を元にして描くことは、ここでは考えていません。

・物理的には、写真はあくまでも限定された一瞬の画像であるという限界があります。
 写真画像は固定されており、自分の立つ位置を変えながら、さらに良い構図を探すということができません。
 画角がかなり狭い範囲に制限されてしまい、言わば、狭い窓から眺めた風景を切り取っただけのものになります。
 焦点距離は人間の目とは異なりますから、奥行き感が現実と異なってきます。
 色彩も現地での色彩とは当然異なります。画像の解像度も、写真には自ずと限界があります。

 こうした写真の「限界」は、写真を元にした絵を描いてきて、十分納得できるようになりました。
 それなのに、そういうことを意識しながらも、写真を元に絵を描いてきた理由は簡単です。単に、絵を沢山描きたかったからです。絵を描く経験を積みたかったからです。

 2004年から、雑多な絵ですが水彩画を100枚ほどを描いてきて、何となく、どう描いていったらいいかが、おぼろげながらですが、つかめてきたような気がします。
 今後は、可能な限り現地で絵を描くようにしていきたいと思っていますが、それでもなお、写真の助けを借りることをやめることはしないでしょう。絵を描くのに自ら条件を限定し、不自由にする必要もないでしょうから…。

 絵を描くにあたって最も大切な要件は、どういう環境で描くかではなく、絵を描く人の心にあると思うからです。
#生意気言ってますねぇ(^^ゞ。


PS
 本日は、夕方になるまで医者に行くことをすっかり忘れていました。それだけ回復してきているのかもしれません。
 医者は、「そろそろリハビリをしても良いかな?」と、私の腕を持ち上げようとしました(危ない危ない(^^ゞ)。先週末の診察の様子を見るとそうは安心はできません。私としては、せめて今週末のレントゲン結果を見てから考えたいですねぇ。

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Spot画を描くようになって  

 このところ、Spot画を描くようになって感じていることを整理しておくことにしましょう。

 絵を描くには、大きく分けて次の2つの方向がありそうです。

●「線を主体にして」に描くもの
 私の描くSpotは、明らかにこの方向です。
 そういう意味では、絵を描くにあたって、その導入口となった奥津国道氏がいます。細密画と呼ばれる線画中心の沢田重隆氏もいます。奥津氏の絵は写実的な風景画ですが、沢田氏は画文集と呼ばれる本の挿絵を描いており、どちらかと言えばイラストに近い絵になるかもしれませんが、絵の持つ雰囲気・迫力は独特のものがあり強く惹かれます。
 ですが、気楽な絵として「Spot」を描く場合、最近は、久山一枝氏や、佐々木清氏などを意識するようになりました。久山氏は自然敵風景を中心に鉛筆やペンを主体とした淡彩仕上げですが、水墨画の経験を持っていることからどことなくそういう雰囲気を感じさせる絵になることも多いようです。佐々木氏は鉛筆を主体とした独自の雰囲気を持った絵を描きますが、集落や風土的考察に係る経験が多いせいか、建物の表現が特に魅力的です。

●「面(色彩)として」描くもの
 私にはなかなか出来ないのですが、根強い憧れとして、この方向があります。
 欧米の画家が解説する本などはそういう印象を受けていましたが、日本では、青木美和氏が該当するような気がしていました。最近では、西房浩二氏もそういった絵を描く画家と言って良いように思います。インターネットではならざき清春氏もそうした絵だと思っています。
 これらの絵は、いずれも強く惹かれるものを感じながら、少しずつ挑戦はしているのですが、私には当分描けない絵のような気がしているのです。

 私の場合、最近描くSpot絵は、久山一枝氏的な絵になっているように思います。
 しばらくそんな絵を描きながらも、「面」として描く絵のことを意識していきたいと思っているのですが…。

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