… 風景画の部屋 …  

2004年初春「水彩画」を描いてみようと思いました。
その歩みを記しています。


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私の絵の見方・考え方
2007年10月26日 (金) 23:06 * 編集
私の絵の見方・考え方

 絵を描き始めて何年か経っているのですが、最初の頃とは絵に対する考え方が少し変わってきていることに気がつきます。そんなところをいつか整理してみたいものだと思っていたのですが、ようやくその気になりましたので、現段階での私なりの絵の見方(あるいは考え方)を書いて見ました。絵のことをわかっている人からみれば笑っちゃう話しでしょうが、まあ「理系人間の考えそうなことだ…」と笑って見過ごして下さい。
 もちろん、これも今後いろいろ変化していくものだと思うのですが…。
#せっかく絵を描いているので手描きにしてみましたが、汚い図になってしまいましたm<(_ _)>m。


 まず、一般的に言われている「具象」とか「抽象」とか言う概念があります。 これをX軸(赤軸)にとってみました。
 私の絵は相変わらず具象ですが、徐々に抽象まではいかないにしても少しずつ崩れて来ているようです。

 次に、「心象」風景などと言う言い方があります。それなら対極は何だろうと思った時、対象を客観的に描くことによってより対象に迫るという考え方もあるだろうと思い、これを「物象」と呼んでみました。もっと適切な言い方があるかもしれませんし、既に別の言い方をしているのかもしれません。これをY軸(青軸)にしてみました。
 私の場合、写真のように描くというところから出発していたような気もしますが、心の感じたものを少しずつですが描こうとするような状況になっているような気がします。

 さらに別の見方はないかと考えてみたものが、表現方法レベルの問題でした。つまり線を重視するのか色彩を重視するのか、という問題です。これを加えるとZ軸(黄軸)になります。
 私が絵を描き始めたきっかけは奥津国道氏の本を見たことでしたから、明らかに線を重視する絵から出発し、今は、線から徐々に色彩重視に移行しようと試行しているところなのですが、これが私にはなかなか難しいものなのです。

 こうした3次元の空間の中で、人それぞれが何らかの「狙い」を持ち、「思いを込めて」描いているのが「絵」だというような気がしているのです。
 私にはまだこの「狙い」を明確に表現するというのは課題のようですね。

 さらに、最近改めて思うことは、水彩の場合にはもう一つ別の軸があるのかもしれないということなのです。
 油彩画や日本画等と比べると、おそらく水彩画人口は初心者レベルから本格的な作品を描こうとする人まで幅が広く、圧倒的に数が多いと思います。そのため、人々が水彩画に抱くイメージは、簡単な「スケッチ」のレベルから「作品(特に大判)」に至る様々な見方があります。つまり、描く人も見る人も、多くの人が「水彩画」だから云々という見方をすることが多いような気がするのです。
 そういう軸をどう考えるのか?は結構重要な気がしてきたのです。

 この点に関しては、私自身も、水彩画をどう位置づけて描いていったら良いのか、まだまだふらついているようです。

 絵を描く人は、そうした状況の中で、それぞれの最も表現したい表現手法で、それぞれの「狙い」を表現したいと考えているのだと思うのですが、私もその中でこれからどうしていこうか?と、いつも頭をよぎるのです。
#こうした思案は、結構楽しいものなんですが…(^_^)。

 以上、私の勝手な思いつきの整理でした(^^ゞ。
写真との関係
2005年12月13日 (火) 19:01 * 編集
 ネット上で知り合った友人が、絵を描く際の「写真との関係」について書いていました。それで、改めて「私にとって写真とは何なのか?」考えてみました。
#あくまでも、ここで書くのは「風景画について」と限定しておきます。

 現地で描くことに拘って絵を描いている人は沢山いますし、現地で描く絵は3次元を2次元に表現する行為になるので、相応の難しさがあり、現地で描かないと絵を描く際の何かが不足したり、絵の本質が失われているかのように言う人がいます。

 私がここに掲載している絵の殆どは写真をもとにしています。
 そして思うことは、私自身、(何枚も現地で描いていないのにですが)そういう難しさがあるとは考えられませんし、現地で描かないから何か絵の本質が失われるとは考えられないのです。

 だからといって、写真を元にして描く絵で十分だと思っているわけではありません。写真と現地はあきらかな違いがあることは確かなのです。

・まず精神的には、絵を描く環境{空気}が違います。
 恐らくこれは、絵を描く人の心のあり方に決定的な違いをもたらしていると思うのです。
 しかし一方、風景はいつも同じではありませんから、必然的にある一定の時間を切り取ることになるわけであり、その空気を体感じているのであれば、その写真をもとにして描いた絵でも相当程度、現地と同じ精神状態で描くことは可能だと思うのです。
#他人の撮影した写真を元にして描くことは、ここでは考えていません。

・物理的には、写真はあくまでも限定された一瞬の画像であるという限界があります。
 写真画像は固定されており、自分の立つ位置を変えながら、さらに良い構図を探すということができません。
 画角がかなり狭い範囲に制限されてしまい、言わば、狭い窓から眺めた風景を切り取っただけのものになります。
 焦点距離は人間の目とは異なりますから、奥行き感が現実と異なってきます。
 色彩も現地での色彩とは当然異なります。画像の解像度も、写真には自ずと限界があります。

 こうした写真の「限界」は、写真を元にした絵を描いてきて、十分納得できるようになりました。
 それなのに、そういうことを意識しながらも、写真を元に絵を描いてきた理由は簡単です。単に、絵を沢山描きたかったからです。絵を描く経験を積みたかったからです。

 2004年から、雑多な絵ですが水彩画を100枚ほどを描いてきて、何となく、どう描いていったらいいかが、おぼろげながらですが、つかめてきたような気がします。
 今後は、可能な限り現地で絵を描くようにしていきたいと思っていますが、それでもなお、写真の助けを借りることをやめることはしないでしょう。絵を描くのに自ら条件を限定し、不自由にする必要もないでしょうから…。

 絵を描くにあたって最も大切な要件は、どういう環境で描くかではなく、絵を描く人の心にあると思うからです。
#生意気言ってますねぇ(^^ゞ。


PS
 本日は、夕方になるまで医者に行くことをすっかり忘れていました。それだけ回復してきているのかもしれません。
 医者は、「そろそろリハビリをしても良いかな?」と、私の腕を持ち上げようとしました(危ない危ない(^^ゞ)。先週末の診察の様子を見るとそうは安心はできません。私としては、せめて今週末のレントゲン結果を見てから考えたいですねぇ。
Spot画を描くようになって
2005年06月24日 (金) 20:39 * 編集
 このところ、Spot画を描くようになって感じていることを整理しておくことにしましょう。

 絵を描くには、大きく分けて次の2つの方向がありそうです。

●「線を主体にして」に描くもの
 私の描くSpotは、明らかにこの方向です。
 そういう意味では、絵を描くにあたって、その導入口となった奥津国道氏がいます。細密画と呼ばれる線画中心の沢田重隆氏もいます。奥津氏の絵は写実的な風景画ですが、沢田氏は画文集と呼ばれる本の挿絵を描いており、どちらかと言えばイラストに近い絵になるかもしれませんが、絵の持つ雰囲気・迫力は独特のものがあり強く惹かれます。
 ですが、気楽な絵として「Spot」を描く場合、最近は、久山一枝氏や、佐々木清氏などを意識するようになりました。久山氏は自然敵風景を中心に鉛筆やペンを主体とした淡彩仕上げですが、水墨画の経験を持っていることからどことなくそういう雰囲気を感じさせる絵になることも多いようです。佐々木氏は鉛筆を主体とした独自の雰囲気を持った絵を描きますが、集落や風土的考察に係る経験が多いせいか、建物の表現が特に魅力的です。

●「面(色彩)として」描くもの
 私にはなかなか出来ないのですが、根強い憧れとして、この方向があります。
 欧米の画家が解説する本などはそういう印象を受けていましたが、日本では、青木美和氏が該当するような気がしていました。最近では、西房浩二氏もそういった絵を描く画家と言って良いように思います。インターネットではならざき清春氏もそうした絵だと思っています。
 これらの絵は、いずれも強く惹かれるものを感じながら、少しずつ挑戦はしているのですが、私には当分描けない絵のような気がしているのです。

 私の場合、最近描くSpot絵は、久山一枝氏的な絵になっているように思います。
 しばらくそんな絵を描きながらも、「面」として描く絵のことを意識していきたいと思っているのですが…。
叱られてしまった
2005年03月11日 (金) 22:14 * 編集
 最近の絵について、友人に叱られてしまった(^^ゞ。
 何となく、自分でも感じていることをズバっと指摘されてしまい。弁解の言葉もない。
 こういうことを言ってくれる友人はありがたいとも思う。

 恐らく、一つには、あまりにも絵はがき的な景観であり、良く知られた景観なので、それに対抗しうる絵にするには全く異なるアプローチというか、表現(絵を描く意思のようなものも含めて)が必要なんだろうと思う。
 もう一つは、最近、絵を描くペースが一定になっていて、着色時間も3からせいぜい4時間内で終了している。ここで叱られた2枚は、自分でも途中でやめてしまった感が否めない。「どうせ今は練習なんだからここらでいいか。」という態度である。自分でも、特に黄山はもっとしつこいくらいに描き込む方がいいなぁと思いながらやめてしまっている。紅葉橋だって岩の表面が明るすぎて奥行き感がない。そういうことを思いながらやめてしまっていることが問題のような気がする。
 友人は、そのあたりを敏感に感じ取っているのだろうと思う。家族にも似たようなことを指摘されてしまうと、絵って怖いと思ったりもする。

 これからは、練習のつもりではなく、絵を描くからには決め(られ)た時間内に描くということよりも、自分が納得できるところまで描く真剣勝負を心がけることにしようと思う。
#でもこれって結構苦しいとこあるよね。
#まだしばらくは気楽にやっていたかったんだけど…(^^ゞ。

 まあ、スケッチ的な絵なら、それにふさわしい対象があるし、ということか。

PS
 27日、黄山の絵を仕上げました。最初の絵と比べてみて下さい。
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近作の「紅葉橋」、「黄山」。
お怒りをかうことを承知で敢えて言わせてもらえば、写真ベースだと
宣言した上での仕事であることを差し引いても、何かチマチマとして、
とても安っぽく見えます。
イケマセン。
表現が「かじかんでいる」というか、エハガキ以上にエハガキ的というか・・・。
写真の「線」に引っ張られてしまっているというか・・・。

常に身近においておきたいと思わせるという意味で、その絵を魅力
あるものにしているのは、「技法」の細部ではないはずデス。
絵の具や筆使いやらの様々な試みは、もう卒業されているわけで、
何を今さら、の感あり。

−というのが、最新版の感想です。
スイマセン。自分が一番嫌いな「エラそーなこと」を言ってしまって。
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○○さん、勝手な引用ごめんなさい。
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