水彩人総会と忘年会 
2013/12/20 Fri. 20:48 [edit]
水彩人の総会。年に2回ほど開催されています。
会場は都美術館のスタジオ。
議題は、①新会員も含めての顔見せ、②同人会の報告、③会員を含めての意見交換等々。基本的には「水彩人15回展の状況と次回に向けての方向性の話し合い」といったところでしょうか?
その後は、忘年会へ。20数人だったかな?
会場では当然ながら水彩談義で盛り上がりました。
◆「水彩人」の方向はどうありたいか?
◆「水彩人」は、もともとお互いに厳しい批評の中で自己を磨いていきたいとする集まり。その方向は維持していきたい。
同人の方々は新しい水彩画を求めているのだということを改めて理解しました。
#私の絵も審査段階ではいろいろ厳しい批評をいただいたようですが、まだノビシロが十分あると言っていただきました(笑)。
◆ターナー展のことも話題に。
・ターナーの絵はもう古い。自然の捉え方が浅いのではないか。等々。
なるほど、いろいろな感じ方があるものです。新しい絵を希求する方々ならでは…の意見かもしれません。
この方は、当日酒席で同席した水彩人同人の一人。この意見は水彩人の方々の基本的考え方かもしれません。絵を描くために何が必要か?考えさせられませんか?
会場は都美術館のスタジオ。
議題は、①新会員も含めての顔見せ、②同人会の報告、③会員を含めての意見交換等々。基本的には「水彩人15回展の状況と次回に向けての方向性の話し合い」といったところでしょうか?
その後は、忘年会へ。20数人だったかな?
会場では当然ながら水彩談義で盛り上がりました。
◆「水彩人」の方向はどうありたいか?
◆「水彩人」は、もともとお互いに厳しい批評の中で自己を磨いていきたいとする集まり。その方向は維持していきたい。
同人の方々は新しい水彩画を求めているのだということを改めて理解しました。
#私の絵も審査段階ではいろいろ厳しい批評をいただいたようですが、まだノビシロが十分あると言っていただきました(笑)。
◆ターナー展のことも話題に。
・ターナーの絵はもう古い。自然の捉え方が浅いのではないか。等々。
なるほど、いろいろな感じ方があるものです。新しい絵を希求する方々ならでは…の意見かもしれません。
この方は、当日酒席で同席した水彩人同人の一人。この意見は水彩人の方々の基本的考え方かもしれません。絵を描くために何が必要か?考えさせられませんか?
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以下は、その場における様々な話しの中から、私が感じた「水彩人」及び「絵画」というものについて…です。
私の勝手な感想ですので、適当に読み流して下さい。
◆「水彩人」は、絵画表現の技術を求める場ではなく、水彩画の可能性を求める場。したがって水彩画という画材を生かすことができる小サイズの絵も評価していこうという姿勢。
#次回から水彩連盟も小サイズを認める方向に行くようですが、これも「水彩人」の展示を見て考え方を変えたと言うことでしょう。ですが、残念ながら水彩連盟の委員はアクリルの方々がほとんどということでしょうか。
◆アカデミックな美術団体ではどちらかと言えば表現技術に対する評価が重視される傾向があるように思われます。一方そういうところから独立した団体(水彩人もそうですが)では、過去の歴史に学び、それを越えよう新しい絵画の可能性を見出そうとしています。乱暴に言ってしまえば写実的な絵画とそうでない絵画との違いでもあります。
絵とはそもそも2次元的な表現の中で様々な表現を試みるものです。観客はもちろん過去の絵画を知ってはいますが、その歴史的なものまで考えるというより、自分の感性によって好きな絵、そうでない絵を感じていくものだと思います。
わかりやすい絵(写実的な絵)というのはそういう意味で受け入れやすい絵ということのなるのだと思います。ただ写実はあまりにも具体的すぎてそれ以上のメッセージをやりとりすることが難しくなると私は感じています。
一方、新しい表現を求める絵というのは、観客にとってはまず最初に感じる違和感のような感情を乗り越える必要があります。しかし、それを乗り越えさえすればさらに新しい世界が開けるのかもしれません。
どういう方向を自分が目指すのかは、絵を描いていく上で重要な分岐点のような気がします。
◆私の絵は基本的には写実的(具象)だと思いますが、別に写真的な表現を求めているわけではなく、それを越えた何かを表現できたら…と考えています。そういう意味でターナーがどのような考えを経て、あのように変化していったのかはちょっと気にしていたりします(笑)。
絵とは不思議なもの、絵のようなものでも努力すればするだけの成果はあるものです。私自身も方向性さえ決まればある程度のレベルに到達できるものだと考えています。そう思いながら、今はまだ迷いつつ具象的な絵を描いていますが、いずれ自分の方向に飽き足らなく思うこともあるかもしれないとも思っています。
「水彩人」では具象的な絵は評価されにくい団体だと思っていますが、もし、私自身にそんな時が訪れたら、その時こそ私が求める方向と「水彩人」がめざす方向が初めて合致するのかな?などとと生意気にも思ったりしています。
別に焦ることはないと思っています。どんな絵も私の絵には違いありませんし、回りの評価で自分を変えていく必要もないでしょう。気楽に自分らしく絵が描いていければ良いことです。そういう中で、自分が感じた刺激によって自分の絵に訪れる変化を待てば良いのだと思うのです。
そういう意味で、私にとって「水彩人」というのは具体的に様々な刺激を与えてくれるとても貴重な団体なのです。
以下は、その場における様々な話しの中から、私が感じた「水彩人」及び「絵画」というものについて…です。
私の勝手な感想ですので、適当に読み流して下さい。
◆「水彩人」は、絵画表現の技術を求める場ではなく、水彩画の可能性を求める場。したがって水彩画という画材を生かすことができる小サイズの絵も評価していこうという姿勢。
#次回から水彩連盟も小サイズを認める方向に行くようですが、これも「水彩人」の展示を見て考え方を変えたと言うことでしょう。ですが、残念ながら水彩連盟の委員はアクリルの方々がほとんどということでしょうか。
◆アカデミックな美術団体ではどちらかと言えば表現技術に対する評価が重視される傾向があるように思われます。一方そういうところから独立した団体(水彩人もそうですが)では、過去の歴史に学び、それを越えよう新しい絵画の可能性を見出そうとしています。乱暴に言ってしまえば写実的な絵画とそうでない絵画との違いでもあります。
絵とはそもそも2次元的な表現の中で様々な表現を試みるものです。観客はもちろん過去の絵画を知ってはいますが、その歴史的なものまで考えるというより、自分の感性によって好きな絵、そうでない絵を感じていくものだと思います。
わかりやすい絵(写実的な絵)というのはそういう意味で受け入れやすい絵ということのなるのだと思います。ただ写実はあまりにも具体的すぎてそれ以上のメッセージをやりとりすることが難しくなると私は感じています。
一方、新しい表現を求める絵というのは、観客にとってはまず最初に感じる違和感のような感情を乗り越える必要があります。しかし、それを乗り越えさえすればさらに新しい世界が開けるのかもしれません。
どういう方向を自分が目指すのかは、絵を描いていく上で重要な分岐点のような気がします。
◆私の絵は基本的には写実的(具象)だと思いますが、別に写真的な表現を求めているわけではなく、それを越えた何かを表現できたら…と考えています。そういう意味でターナーがどのような考えを経て、あのように変化していったのかはちょっと気にしていたりします(笑)。
絵とは不思議なもの、絵のようなものでも努力すればするだけの成果はあるものです。私自身も方向性さえ決まればある程度のレベルに到達できるものだと考えています。そう思いながら、今はまだ迷いつつ具象的な絵を描いていますが、いずれ自分の方向に飽き足らなく思うこともあるかもしれないとも思っています。
「水彩人」では具象的な絵は評価されにくい団体だと思っていますが、もし、私自身にそんな時が訪れたら、その時こそ私が求める方向と「水彩人」がめざす方向が初めて合致するのかな?などとと生意気にも思ったりしています。
別に焦ることはないと思っています。どんな絵も私の絵には違いありませんし、回りの評価で自分を変えていく必要もないでしょう。気楽に自分らしく絵が描いていければ良いことです。そういう中で、自分が感じた刺激によって自分の絵に訪れる変化を待てば良いのだと思うのです。
そういう意味で、私にとって「水彩人」というのは具体的に様々な刺激を与えてくれるとても貴重な団体なのです。
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