ノスタルジックな港町・鞆の浦への旅 12月23(月)~25日(水) (その1・12月23日(月)) 
2019/12/23 Mon. 23:20 [edit]
【初日・12月23日(月)】 福山から鞆の浦へ
■のぞみ 号(新横浜10:29~福山13:41)
本日は晴。快晴とは言えず何となく薄曇りの天気で、時折、雲の合間から太陽が顔を覗かせる…そんな日である。
富士もあまり良く見えないし、先日天橋立に行く際に車窓を撮ったばかりなので、車窓の風景には興味なし。
崎陽軒の焼売弁当(割合お気に入りなのだが)、昔は600円だったのを思い出す。

■福山駅・福山城の見学
ホテルの送迎バスが来るまで50分ほどの時間があった。
送迎バスを待つ場所を確認しようと表玄関(南口)の方に向かったのだが、場所が見あたらない。観光案内所に聞いたら北口ではないかと言う。

北口に出たら目の前に福山城。そう言えばいつも見かけていた城はここだったのだ。
ホテルに電話しバス待ちの場所を確認した後、早速、福山城の見学に向かった。





■福山駅~ホテル
送迎バス(福山駅14:40発)での時間は30~40分くらいだったろうか。途中の風景も期待したのだがそれほどでもなかったし、車中で撮れる写真は限られている。
ホテルの室内は別館とは言っても、やや古い印象は拭えない。目の前には本館があるので眺望は今ひとつ。但し、このホテルの口コミ評価はかなり高いので、そちらは期待できそうである(笑)。

■夕暮れの鞆の浦
鞆の浦については、常夜灯のある港の風景が有名であり、自分の身の回りの人々も何人かここを描いているのを知っていたが、それだけではなく、随分昔の話しになるのだが、都市計画道路を通すか通さないかで随分もめてきた町だと言うことを、何かの小さな新聞記事で知っていた。それで、道路を造らなかった結果がどういう町になっているかも知っておきたかったのだ。

夕飯までは時間があるので、鞆港の方へ出かけてみた。
ホテルからここまでは数分。それに見どころとなる場所も予想以上に狭いこともわかってきた。





そして、ここは對潮楼。鞆の浦が明治維新の舞台の一つであることは知っていたが、朝鮮通信史との関わりもあることを知ったのはここへ来てからだった。
ここから見るこの眺めは有名だが、私はもう一つ、このフルベッキの写真にも大いに興味があったので、現物を是非見たかったのである。しかし、ここでこの写真のことを知っている人は殆どいなかったのにはちょっとガッカリでもある。
#この写真には、写真が現存しないことになっている西郷隆盛が写っているとされたり、後に明治天皇となる大室虎之?が写っているとされるなど明治天皇すり替え説の根拠の一つにもなっている。参考:フルベッキ写真。
この写真の真偽はともかく、私は、明治維新の歴史について、ロスチャイルドの影響をあまりにも無視していたりすることや、当時20代そこそこの若者達の行動や坂本龍馬を過大に評価しすぎていたりするのが、あまりにもいかがわしいと思うようになっている。例えばカネも権力もない若者や脱藩した龍馬が海援隊の数十人を食わせていくカネや、武器を購入したり薩長と渡り合うと言った、あれほど動けるカネはどこから出ていたのか、と思うのである。長州五傑の莫大な留学費用やその便宜を図ったのはどこの誰なのだろう。それは何のために?…と言った具合である。
歴史というものは常に勝者のために作られるものだということなのだろう。

■宿泊先ホテル
・景勝館漣亭(別館)
〒720-0201 広島県福山市鞆町鞆421番地
℡084-982-2121( 受付 9:00~21:00 )
このホテルにおける高評価のポイントは素晴らしい食事ととても暖かいサービスにあると思うのだが、まず最初の食事である。

本日は利き酒セット(笑)。


本日は鯛中心。鯛のカブト煮はちょっと手を付けてしまってから写真を撮るのを思いだした(笑)。↑
鯛の炊き込みご飯(釜飯)はご飯の量が半端じゃない。

食べ終わったところ。きれいサッパリ。皿の中には殆ど残っていない(笑)。
食べきれなかったご飯はおにぎりにしてくれた。

風呂は食後になってしまったせいか、大浴場では一人での入浴。
随分気持ち良いものだ(笑)。
■のぞみ 号(新横浜10:29~福山13:41)
本日は晴。快晴とは言えず何となく薄曇りの天気で、時折、雲の合間から太陽が顔を覗かせる…そんな日である。
富士もあまり良く見えないし、先日天橋立に行く際に車窓を撮ったばかりなので、車窓の風景には興味なし。
崎陽軒の焼売弁当(割合お気に入りなのだが)、昔は600円だったのを思い出す。


■福山駅・福山城の見学
ホテルの送迎バスが来るまで50分ほどの時間があった。
送迎バスを待つ場所を確認しようと表玄関(南口)の方に向かったのだが、場所が見あたらない。観光案内所に聞いたら北口ではないかと言う。


北口に出たら目の前に福山城。そう言えばいつも見かけていた城はここだったのだ。
ホテルに電話しバス待ちの場所を確認した後、早速、福山城の見学に向かった。









■福山駅~ホテル
送迎バス(福山駅14:40発)での時間は30~40分くらいだったろうか。途中の風景も期待したのだがそれほどでもなかったし、車中で撮れる写真は限られている。
ホテルの室内は別館とは言っても、やや古い印象は拭えない。目の前には本館があるので眺望は今ひとつ。但し、このホテルの口コミ評価はかなり高いので、そちらは期待できそうである(笑)。


■夕暮れの鞆の浦
鞆の浦については、常夜灯のある港の風景が有名であり、自分の身の回りの人々も何人かここを描いているのを知っていたが、それだけではなく、随分昔の話しになるのだが、都市計画道路を通すか通さないかで随分もめてきた町だと言うことを、何かの小さな新聞記事で知っていた。それで、道路を造らなかった結果がどういう町になっているかも知っておきたかったのだ。

夕飯までは時間があるので、鞆港の方へ出かけてみた。
ホテルからここまでは数分。それに見どころとなる場所も予想以上に狭いこともわかってきた。









そして、ここは對潮楼。鞆の浦が明治維新の舞台の一つであることは知っていたが、朝鮮通信史との関わりもあることを知ったのはここへ来てからだった。
ここから見るこの眺めは有名だが、私はもう一つ、このフルベッキの写真にも大いに興味があったので、現物を是非見たかったのである。しかし、ここでこの写真のことを知っている人は殆どいなかったのにはちょっとガッカリでもある。
#この写真には、写真が現存しないことになっている西郷隆盛が写っているとされたり、後に明治天皇となる大室虎之?が写っているとされるなど明治天皇すり替え説の根拠の一つにもなっている。参考:フルベッキ写真。
この写真の真偽はともかく、私は、明治維新の歴史について、ロスチャイルドの影響をあまりにも無視していたりすることや、当時20代そこそこの若者達の行動や坂本龍馬を過大に評価しすぎていたりするのが、あまりにもいかがわしいと思うようになっている。例えばカネも権力もない若者や脱藩した龍馬が海援隊の数十人を食わせていくカネや、武器を購入したり薩長と渡り合うと言った、あれほど動けるカネはどこから出ていたのか、と思うのである。長州五傑の莫大な留学費用やその便宜を図ったのはどこの誰なのだろう。それは何のために?…と言った具合である。
歴史というものは常に勝者のために作られるものだということなのだろう。


■宿泊先ホテル
・景勝館漣亭(別館)
〒720-0201 広島県福山市鞆町鞆421番地
℡084-982-2121( 受付 9:00~21:00 )
このホテルにおける高評価のポイントは素晴らしい食事ととても暖かいサービスにあると思うのだが、まず最初の食事である。







本日は鯛中心。鯛のカブト煮はちょっと手を付けてしまってから写真を撮るのを思いだした(笑)。↑
鯛の炊き込みご飯(釜飯)はご飯の量が半端じゃない。


食べ終わったところ。きれいサッパリ。皿の中には殆ど残っていない(笑)。
食べきれなかったご飯はおにぎりにしてくれた。


風呂は食後になってしまったせいか、大浴場では一人での入浴。
随分気持ち良いものだ(笑)。
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